野糞

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映画『aftersun/アフターサン』 感想

父・カラムの行動は破滅的だ。

娘・ソフィを巻き込んで堂々と食い逃げするほど金に困っているのに高価な絨毯は購入してしまうし、無免でダイビングしたり、突然車道に飛び出したり、ベランダの欄干から身を投げるような体勢で立ちすくんだり、夜の海へ入水しかけたり、バカンスが終わりに近づくにつれ行動の危うさも増していく。

右腕の怪我や東洋思想っぽいスピリチュアルへの傾倒、鏡に映った自身の顔に歯磨き粉を含んだ唾を吐きかける些末なシーンすらも彼の不安定なメンタルを匂わせる。

極め付けはソフィに宛てたポストカード。

新学期に合わせてひと足先に帰国した彼女に「愛している、忘れないで」という言葉を記し、背中を震わせ嗚咽する姿は遺書をしたためているかのよう。

カラムの日常に死や退廃的な何かがチラついていることは確実だが、その“何か”の正体は作中で明かされない。


我々鑑賞者と同じく、ソフィもまたカラムの抱える闇を理解し、受け止めきれているわけではないように思える。

カラムに金銭的な余裕がないこと、思いを寄せていた女性に恋人ができたこと、ソフィ達が暮らす地元に戻りたがらないこと、「心のカメラ」に向けて語られた誕生日の出来事から、カラムの人生がハードモード気味なことは11歳の彼女もうすうす勘づいていただろう。

しかし、多くの鑑賞者がギョッとさせられた希死念慮の発露ともいえるカラムの突飛な行動の数々をソフィは直接目にしておらず、ビデオテープにも記録されていない。

カラオケ大会後1人で部屋に戻ったカラムが何をしていたのか、イギリスの自宅に届いたポストカードのメッセージがどのような感情で記されたものだったのか、ソフィが知る手立てはもはや残されていないのだ。

多義的な解釈が可能なクラブハウスの情景においても、11歳の姿と大人になった姿が入り混じるソフィとは異なり、カラムは空港まで見送りに来ていたときの容姿・服装のまま、もがき苦しむように踊り狂う。

激しい点滅のなか抱き止めるソフィを突き放すように遠ざかっていくカラムと、ひとり残されたソフィの姿からは、やはり当時のカラムが抱え込んでいた“何か”の痕跡を探り、本心に近づこうと試みるもその正体にたどり着けないもどかしさや寄り添いきれなかった後悔の念が痛いほど伝わってくる。


しかし、カラムを追って涙を流すクラブハウスのソフィとは異なり、ビデオカメラで撮影されたホームビデオを観終わった現実の彼女は、どこか釈然としない消化不良な面持ちを浮かべる。

あのカメラに映されていたものといえば、プールに飛び込むソフィ、大きなアイスのことでカラムと軽口をたたき合うソフィ、テレビ番組のアナウンサーになりきって目につくもの全てを紹介してみせるソフィなど、鑑賞者からしてみれば退屈なまでに私的でたわいない、ありがちな夏休みのワンシーンばかりである。

カラムが11歳の自分について質問された途端強い口調でソフィにビデオを止めさせたのは、眩しい夏の思い出が詰まった映像の中に1秒たりとも自身の暗い影を落とさないよう、気を遣っていたからかもしれない。

だが、カラムの面影を辿るために映像を再生したソフィにしてみれば、11歳の無邪気な自分の姿ばかりが映し出されたホームビデオの楽しげな雰囲気には面食らったはずだ。

「心のカメラ」に記録されたカラムの困難な生い立ちや、年を重ねたからこそ理解できるようになった当時の父の苦しみは徹底的に隠され、底抜けに呑気な映像ばかり残されているのがむしろ痛ましい。

ソフィは「もっと父の映像も残しておけばよかった」と後悔する反面、「カメラを回すなら自分のことよりも愛しい我が子の姿を記録しておきたい」というカラムに対する親としての共感も抱いており、それらがない交ぜになった結果があの複雑な表情だったのではないか。


カラムの心に巣食っていた闇の正体とは何だったのか、彼は旅行後にどうなったのか、映画の中で明確な答えが語られるわけではない。

カラムの生涯が波乱に満ちたものであったのと同じく、現在のソフィも同性パートナーとの間に子をもうけるという伝統的な家族観に収まりきらない生き方を選び、それゆえの苦悩や葛藤と戦ってきたのかもしれないが、カラムがそうであったように、彼女の半生も映画の中でわかりやすく説明されることはない。

それでも、カラムの買った絨毯が寝室に引かれ、最終日の夕食時に撮影したインスタントカメラの2ショット写真を思わせるポラロイドが居間に飾られていることからも、20年経った今でもソフィの中ではあの夏の想い出が心に息づいていることは鑑賞者の視点からも窺える。

 

ソフィにとって、あの夏の旅行が忘れえぬものとなったのはもちろんカラムとの思い出あってのことだろうが、彼女自身に決定的な変化が訪れたことも関係しているのだろう。

11歳という多感な思春期の少女らしく、父の目を盗んでTinseltown Teaseなるキスマークが描かれたピンク色の表紙の本や“love”特集の雑誌を読み漁り、ティーン同士のささやかな猥談にも混ざりたがるソフィ。

カラムがソフィの見ていない所で苦悩を露わにしていたのと同じく、ソフィもまたカラムの目が届かない場で健全な青少年としてのイニシエーションを受ける。

カラオケ大会の夜、女子トイレで性体験を語っていたティーンのうちの1人からオール・インクルーシブのリストバンドがソフィに手渡される様は、あの夏ソフィが少女から大人へと成長の一歩を踏み出したことが象徴的に語られている。

 

今となってはあまり目にする機会のないminiDVの家庭用ビデオカメラだが、この映画では現在のソフィとあの夏のカラムを繋ぐ重要なアイテムである。

冒頭でテープを巻き戻すかのような逆再生・早回しの映像が入るのは、父の面影を探り続けるソフィが何度もビデオを観返しているからだろうか。

当人しか知り得ない情景や主観的な記憶が多分に入り混じる画面の中で、ビデオに録画された映像はソフィとカラムが共有した数少ない客観的な記録だ。

しかし、反復・複製可能な媒体に大切な思い出を記録したところで、何度テープを巻き戻しても時は戻らず、レンズに映されなかったものは永遠に分からないまま。

空港でソフィを見送ったカラムが手に持っていたカメラをリュックサックにしまいこむ姿からも、彼は自身の苦悩を誰にも明かすことなく、映像にも残さず、1人で抱えたまま“行ってしまった”のだろうと思われる。

カラムは不可逆的な時の流れを象徴するような長い廊下を進み、やがて扉で仕切られたクラブハウスのように点滅する部屋の中へ消える。

そこへ赤子の泣き声が重なる様は、父を失う過去への悲しみと、子を育てる未来への期待が入り混じった、余韻がある、悲しいけれど愛に寄り添った誠実な物語で、そんでまたあのエンドロールが、プールサイドで流れる音楽って、水中に潜るとあんな風にくぐもって聞こえがちで、そんなところまでノスタルジーのツボを刺激してくるのと、最強洋楽Hit Song〜SUPER BEST remix〜みたいな王道BGMたちの中で唯一耳慣れないトルコ語の曲の歌詞の意味、これ、最後の晩餐でソフィが「ずっとここにいたいけど一生は無理だよね」と言ったときのカラムの心情を見事に物語っていて、難解だし、言葉にしようとすると逃げていくタイプの映画なのに、誰も彼もが感想を書きたいと思ってしまう魔力に溢れていて、めっちゃ感動しました❗️❗️涙が止まりません❗️❗️アフターサン、サイコー❗️‼️‼️‼️‼️😁😁😁😁✌️✌️✨✨✨✊👊✊👊✊